徒然なる儘に ・・・ ④

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(天声人語)消える時刻表 2023年10月8日 5時00分

コスパだのタイパだのと効率を迫られる世の中だから、余計に思いが強まるのだろう。行き当たりばったりの旅にあこがれる。お手本は内田百けん(ひゃっけん)の『特別阿房(あほう)列車』の心である。「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」

內田 百閒(うちだ ひゃっけん、1889年明治22年〉5月29日 - 1971年昭和46年〉4月20日)は、日本小説家随筆家。本名榮造󠄁。別号は百鬼園(ひゃっきえん)。号の「百閒」は、故郷岡山にある旭川の緊急放水路の百間川から取ったもので、当初は「百間」と表記していたが、後に「百閒」に改めた。

 

生涯

生い立ち

1889年明治22年)5月29日岡山市(現在の中区古京町一丁目百四十五番地に、父:久吉、母:峯の一人息子として誕生。実家は裕福な造り酒屋「志保屋」で、先代の祖父の名から「榮造󠄁」と命名される。岡山市立環翠小学校(現在の岡山市立旭東小学校)、岡山高等小学校(現:岡山市立岡山中央小学校)を経て、岡山県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)入学。

1905年明治38年)、父・久吉死去。実家の志保屋が倒産し経済的に困窮する。『吾輩は猫である』を読み、夏目漱石に傾倒する。1906年明治39年)、博文館発行の文芸雑誌『文章世界』に小品を投稿し、「乞食」が優等入選する。

1907年明治40年)、岡山中学校を卒業し、第六高等学校(現在の岡山大学)に入学。1908年明治41年) - 担任の国語教師・志田素琴の影響で俳句を始め、句会を開く。俳号は地元の百間川にちなんで「百間」とする。

東京帝国大学時代

1910年明治43年)、第六高等学校卒業。上京し、東京帝国大学文科大学入学(文学科独逸文学専攻)。1911年明治44年)、療養中の夏目漱石を見舞い、門弟となる。小宮豊隆鈴木三重吉森田草平野上豊一郎らと知り合う。

1912年大正元年)、中学時代の親友であった堀野寛の妹、堀野清子と結婚。1913年大正2年)、夏目漱石著作本の校正に従事。長男久吉生まれる。

作家として

1914年大正3年)、東京帝国大学独文科を卒業。漱石山房では芥川龍之介久米正雄を識る。長女多美野生まれる。1916年(大正5年) - 陸軍士官学校ドイツ語学教授に任官(陸軍教授高等官八等)。

1917年大正6年)、岩波書店版『夏目漱石全集』の校閲に従事。次男唐助生まれる。1918年大正7年)、海軍機関学校英語学教官であった芥川の推薦により、同校のドイツ語学兼務教官嘱託となる。

1920年大正9年)、法政大学教授(予科独逸語部)に就任。祖母・竹が死去。1921年(大正10年)短編小説「冥途」「山東京伝」「花火」などを「新小説」に発表。次女美野生まれる。1922年大正11年)、処女作品集『冥途』を稲門堂書店より刊行。

1923年大正12年)、陸軍砲工学校附陸軍教授を命ぜられる。関東大震災に罹災。前年刊行の『冥途』の印刷紙型を焼失。同時に機関学校も崩壊焼失したため、嘱託教官解任。1924年大正13年)、三女菊美生まれる。大村書店版『ゲーテ全集』の編集に参加。

1925年大正14年陸軍士官学校教授を辞任、債権者に追われ家族と別居。陸軍砲工学校教授依願免官。1929年昭和4年)、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)の合羽坂に転居(佐藤こひと同居)。中野勝義の懇請を受けて法政大学航空研究会会長に就任、航空部長として、学生の操縦による青年日本号訪欧飛行を計画・実現。

1933年昭和8年)、随筆集『百鬼園随筆』を三笠書房よりを刊行、重版十数刷を重ねベストセラーとなる。

1934年昭和9年)、いわゆる「法政騒動」を機に法政大教授を辞職。追放画策者には森田草平関口存男がいた。以後文筆業に専念。1936年昭和11年)、長男・久吉死去(23歳)。

1939年昭和14年)、日本郵船嘱託となる( - 1945年)。同年台湾旅行。百閒の原作による映画「ロッパの頬白先生」(主演:古川ロッパ)を制作・公開。

1942年昭和17年)、日本文学報国会への入会を拒否。

1945年(昭和20年)、東京大空襲により東京都麹町区土手三番町(現在の千代田区五番町)の自宅焼失。隣接する松木男爵邸内の掘立小屋に移住。後年、このころの日記を『東京焼盡』として発表。

戦後

1948年(昭和23年)、東京都千代田区六番町6に三畳間が3つ並んだいわゆる三畳御殿の新居が完成。

1950年(昭和25年)、大阪へ一泊旅行。これをもとに随筆「特別阿房列車」を執筆、以後『阿房列車』としてシリーズ化、1955年まで続き、戦後の代表作となる。

1952年(昭和27年)、鉄道開業80周年を記念して,東京駅一日駅長に就任。1956年(昭和31年)、宮城道雄が夜行急行「銀河」に乗車中に奇禍に会い列車から転落、東海道線刈谷駅付近にて急逝。

1957年昭和32年)、愛猫「ノラ」が失踪。『ノラや』をはじめとする随筆を執筆。

1959年(昭和34年)、小説新潮に「百鬼園随筆」と題した連載を開始。死の前年まで続く。

1964年(昭和39年)、妻・清子死去(72歳)。翌年、佐藤こひを入籍。

1967年(昭和42年)、芸術院会員に推薦されるが固辞[3]。辞退の弁は「イヤダカラ、イヤダ」。

1970年(昭和45年)、最後の百鬼園随筆である「猫が口を利いた」発表。老衰が激しく以降の作品が書けず、これが絶筆となる。

1971年(昭和46年)4月20日、東京の自宅で老衰により死去、享年81歳。戒名は覚絃院殿随翁栄道居士。最後の随筆集『日没閉門』が出版される。1973年(昭和48年)には摩阿陀会有志により東京中野区金剛寺に句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」が建立される。この句碑から、忌日の4月20日木蓮忌とも言う。

1952年10月15日、東京駅名誉駅長を務める內田百閒(左)。右隣は松井翠声漫談家

人物

造り酒屋の一人息子

裕福な造り酒屋の一人息子として生まれ、祖母に溺愛され何の不自由もなく育ったため、我儘で頑固、偏屈で無愛想な性格であったと言われる。自分が丑年の生まれで子供の頃は牛が好きで、祖母にねだって様々な牛の玩具を買ってもらっていたが、それに飽き足らず、最後には本物の牛を買ってもらった。学生時代の夏休みに高野山の講義に参加したが、旅費として貰ったお金で『樗牛全集』を買ったり、泊まった旅館で気を良くしてチップを渡しすぎるなどし、「万一の時のために」と着物に縫い込んでもらったお金までも使い果たし、帰りの汽車賃が足らなくなってしまった。仕方がないので残りのお金で行けるところまで行き、そこで持っていた『樗牛全集』を古本屋に売り旅費に充てた。家に戻ってからもう一度『樗牛全集』を買ってもらったのは言うまでもない。このような環境や性格が、後の百閒の独特の論理や考え方、作品や生活に影響を及ぼした。また「官僚趣味」であるとも公言し、この好みのためか、秩序の破壊と復讐を行った赤穂浪士が大嫌いだとも書いている。

法政大学と摩阿陀会

持ち前のいたずらっ気やユーモアもあって、特に法政大学教授当時の教え子(百閒自身はこの呼称を嫌い「学生」と呼んだ)達から慕われた。還暦を迎えた翌年から、教え子らや主治医・元同僚らを中心メンバーとして、毎年百閒の誕生日である5月29日に「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生パーティーが開かれていた。摩阿陀会の名は、「百閒先生の還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、即ち「まあだかい」に由来する。黒澤明監督による映画『まあだだよ』は、この時期を映画化したもの。なお、この摩阿陀会に対する返礼として、百閒は自腹で「御慶の会」を正月三日に同じ会場(主に東京ステーションホテル)で催した。

琴と宮城道雄

岡山時代から琴の演奏に熱心に取り組み、上京後は、「春の海」などの作曲で知られる宮城道雄に師事した。当初は師弟関係であったが、のちに二人は大の親友となり、宮城との交流を描いた随筆も多い。逆に宮城道雄の著作については百閒が文章指南をしていた。百閒と宮城は、ロシア文学者の米川正夫や童謡作詞家の葛原しげるらともに「桑原会」(そうげんかい)という文学者による琴の演奏会を催していたこともある。「桑原」には「箏弦」の意と、聞いたものが恐ろしくて「くわばら、くわばら」と言って逃げ出すという意味があった。1956年(昭和31年)6月25日未明、宮城が大阪行夜行急行「銀河」から転落死した後、百閒は追悼の意を込めて遭難現場となった東海道本線刈谷駅を訪問し、随筆「東海道刈谷驛」を記している。

阿房列車』と乗物好き

鉄道に関しては「目の中に汽車を入れて走らせても痛くない」というほど愛しており、国鉄職員であった「ヒマラヤ山系」こと平山三郎をお供に、全く無目的に、ただひたすら大好きな汽車に乗るためだけの旅を実行、それを『阿房列車』という鉄道紀行シリーズにまとめた。のちに『南蛮阿房列車』を書いた作家の阿川弘之、鉄道紀行作家の宮脇俊三も、自らの先達として百閒を挙げている。『阿房列車』では北海道を除く日本全国を旅しているが、特に熊本県八代市にある旧八代城主の別邸で、百閒訪問当時は旅館として営業していた松濱軒(しょうひんけん)には好んで滞在し、東京・八代間を何度も列車で往復した。また、鉄道のみならず飛行機も好きで、法政大学教授時代には飛行機好きの学生たちを率いて航空研究会長をしており、随筆でもその飛行機愛を吐露している。さらには日本郵船の嘱託だった関係で、鎌倉丸の周遊記をはじめとする船の旅についての随筆も残している。

小鳥好き

昭和20年、東京空襲で麹町の自宅を焼け出された百閒は、飼っていたメジロと身の周りの品だけを持って隣の三畳の小屋に移り住んだ。新居も三畳の部屋が三つ繋がる間取りで「三畳御殿」と命名した。動物では小鳥が好きで、文鳥メジロやノジコなどを多数飼い(後述のようには後から来たため、先住者である小鳥は襲わなかった)、小鳥に関する随筆も多く残している

ノラとクルツ

ふとしたきっかけで野良猫と暮らすことになり、その猫をノラと名付けて可愛がった。ノラが失踪し行方不明になると、その安否を気にして可哀想で一日中涙が止まらず、何事にも手が付かないほど憔悴し、新聞に「迷い猫」の案内広告を出したり、二万枚のビラを作って町内に配るなどした。その後にノラに似ているという理由で迎えたクルツも病死してしまい、その悲しみを綴った『ノラや』、『クルやお前か』は猫文学・ペットロス文学の代表作の一つとなっている。百閒は元々は猫好きではなかったが、猫を描いた作品も多く、師の漱石が書いた『吾輩は猫である』を蘇らせ、その続編の『贋作 吾輩は猫である』も書いている。

借金と錬金術

旧制岡山県立中学校在学当時に父の死により実家の造り酒屋が倒産し、それからは生涯金銭面での苦労が多かった。旧制第六高等学校入学時にも、生徒は原則的に全員入寮が義務づけられているのに、內田家では寮に入る金が捻出できず、学校当局の特別許可をもらって自宅から通学していたほどだった。著作には借金や高利貸しとのやりとりを主題としたものも多く、後年は借金手段を「錬金術」と称し、長年の借金で培われた独自の流儀と哲学をもって借金することを常としていた。「錬金帖」という借金ノートも現存している。

郷里の岡山

岡山での幼少時の思い出を幾度も書き、『阿房列車』の旅では国鉄岡山駅のホームを必ず踏み、車窓から風景を凝視するほどだった。好物の大手まんぢゅうをはじめ、故郷の食べ物にも強い愛着を持っていた。しかし「移り変わった岡山の風景は見たくない」「大切な思い出を汚したくない」として、1942年(昭和17年)の恩師の葬儀(駅からタクシーで乗りつけ帰路はそのままとんぼ返りした)以外は決して岡山に帰ろうとはしなかった。没後遺志により分骨され先祖代々の墓に納められ、郷里に戻った。

「イヤダカラ、イヤダ」

1967年(昭和42年)に日本芸術院の会員候補になるが、そのことを知った百閒は、法政大学時代の教え子で「摩阿陀会」の肝煎でもあった多田基にメモを渡し、その内容を同院の高橋誠一郎院長に伝えるように依頼した。メモには、芸術院に入るのはいやで、なぜいやかというと気が進まないからで、なぜ気が進まないかとというといやだから、ということが記してあった[6]。推薦段階で辞退した文学者は、百閒の他に、高村光太郎大岡昇平武田泰淳木下順二がいる。また、戦時中には中里介山とともに日本文学報国会への加入を拒んだこともあった。

旧字旧仮名

執筆においては旧字旧仮名遣いを厳として固守し続け、著作物はすべて旧字・旧仮名遣いで刊行されており、没後の出版においても百間の遺志として旧仮名が守られていた[7][8]。また言葉遣いのわずかな違いにも厳しく、谷崎潤一郎の『文章読本』に記された送り仮名の使用法について異議を唱えたこともある。生誕百年に当たる1989年平成元年)以降、弟子で小説家の中村武志の判断により、遺族(著作権者)の許可の下に、文庫に限り特殊なものを除いて新字・新仮名遣いで発行されている。中村は新かなにした理由として、旧仮名に馴染みのない若い世代も百閒に親しんでもらいたいからとしているが、しかしこれは百閒の本意ではないため、霊界で百閒に会ったら勝手に新かなに改めたことを詫びてひたすらにお許しを乞うつもりだと述べている

 

▼切符を事前に買うことは「旅行の趣旨に反する」と潔しとしない。さすがである。懐の算段がつくと、出発までは夜な夜な時刻表を眺めている。にやけた様子が目に浮かぶ

 

▼名文家が想像を広げた時刻表も、最近は冊子の発行部数が激減していると聞いていた。しかし、ついに駅のホームからも掲示が消えつつあるとは。先日の記事に驚いた。ダイヤ改定のたびに差し替えるので経費がかかる。その削減が目的だという

 

▼たしかに都会では、時刻表に頼らずとも列車はすぐにやってくる。仕事で出張する際も、ネットで調べておくのが習慣になった。だからわがままだとは知りつつ、「行き当たりばったり派」としては、どこか寂しさが否めない

 

▼取材で小さなホームに降り立つことがある。空白だらけの時刻表に思いは膨らむ。以前はもっとにぎわったのに違いない。乗ってくるはずの人に会えず、待ち続けた人もいただろう。〈停車する駅のホームの薔薇の花ふと揺らぎたり人待つ如く〉吉川米子

 

▼少々センチメンタルに過ぎたかもしれない。でも忘れ得ぬ思い出を、あの小さな数字の集まりに抱く人は少なくなかろう。寂しくなるのは、秋がもたらす感傷のせいばかりではない。