徒然なる儘に ・・・ ④

心機一転、新たにブログ再開です💕 雑談を書くことも多いですけれど・・・(主に、電子ゲーム・ネタ💕)、残りは【新聞記事】にコメントを入れています💕

自由民主党憲法改正草案

constitution.jimin.jp

 

 

渡辺恒雄氏(讀賣新聞社 会長) と日本国憲法

 

改憲機運を後押しした読売案

憲法のトリセツ

 

 [会員限定記事]

 

1994年、読売新聞が憲法改正試案を発表しました。改憲を党是に掲げる自民党でさえ、どこを変更するのかが定まっていなかった時期とあり、大きな反響を呼びました。以降、政党やメディアをはじめ、さまざまな組織が改憲案をつくるようになりました。

鳴りやまぬ電話

読売新聞は1994年、憲法改正試案を発表した

読売新聞が独自の改憲案を朝刊に載せたのは11月3日、いまの憲法が1946年に公布されたのと同じ日でした。掲載することは10月31日に事前告知されており、永田町では与野党の国会議員がどんな内容になるのかを聞き出そうと、親しい読売新聞の記者を呼びつけたりしていました。

当日は文化の日で祝日でしたが、読売新聞本社には多くの社員が出勤し、臨時電話の前で備えていました。朝から電話が鳴りやむことはなく、応対に追われました。

批判が多かったそうです。護憲派の読者が「新聞・テレビのようなマスコミは中立であるべきだ」と怒っていたのみならず、改憲派も内容が気にくわない、とおかんむりだったそうです。

湾岸戦争がきっかけ

独自の改憲案の作成を主導したのは同社の渡辺恒雄主筆です。1991年に社長に就き、社内を動かしやすくなったという事情もあったようですが、それ以上に渡辺氏を突き動かしたのは、その年にあった湾岸戦争でした。

多国籍軍自衛隊も加わってほしいという米国の要請を日本は憲法の制約を理由に断りました。民生支援を含め約130億ドルを拠出しましたが、戦後にクウェートが出した感謝リストに日本は載っていませんでした。

読売新聞社調査研究本部編「提言報道」

読売新聞社調査研究本部編「提言報道」(2002年、中央公論新社)によると、渡辺氏は「世界に十分認知される国際貢献を実行するためには、現行の憲法はあまりに障害が多過ぎる」として改憲を呼びかけることにしました。

1992年に猪木正道防衛大学校長ら有識者を招き、社内に憲法問題調査会を設置します。年末に発表した「調査会第1次提言」では「憲法は宗教の聖典ではない。修正・除去していくのは当然である」として改憲を強く訴えました。翌年には政治、経済、社会など各部の中堅記者らで具体的な条文づくりに入りました。

発表当時の首相は社会党村山富市氏でした。自民党は連立を組むことで、なんとか与党に復帰したばかりだったので、改憲の主張は当分、封印しようとしていました。そこに読売案が出てきたので、自民党内は「いまはまずいよ」と「やっぱり改憲」でかなりもめました。この論争は、1995年に総裁が河野洋平氏から橋本龍太郎氏に交代する一因になりました。

「自衛組織」の保持を明文化

読売案の内容を見てみましょう。全文を読みたい方は読売新聞のホームページ(https://info.yomiuri.co.jp/media/yomiuri/feature/kaiseishian.html)をご覧ください。試案はのちに改訂されたので、下記の引用と記述がやや異なる部分があります。

改憲を提起するきっかけが湾岸戦争なので、最重点は軍備を禁じた憲法9条の見直しです。ただ、国権の発動たる戦争を禁じた第1項はそっくり残しました。文末を「放棄する」から「永久にこれを認めない」と変えただけでした。

他方、第2項にある「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」「交戦権は、これを認めない」は削除しました。自衛隊は実態は軍隊なのに、法的にはそうではない、という状態を解消するためです。代わりに以下のような条文を置きました。

(1)日本国は、自らの平和と独立を守り、その安全を保つため、自衛のための組織を持つことができる。
(2)自衛のための組織の最高の指揮監督権は、内閣総理大臣に属する。
(3)国民は、自衛のための組織に、参加を強制されない。

軍隊を持つことを明確にするとともに、戦前のような軍の暴走を防ぐため、首相による文民統制を規定しました。(3)は徴兵制は採用しない、という意味です。

湾岸戦争の教訓を踏まえ、「平和の維持及び促進並びに人道的支援の活動に、自衛のための組織の一部を提供することができる」という条文も新設しました。佐藤栄作首相が1967年に打ち出した非核三原則を念頭に置いて、「非人道的な無差別大量破壊兵器が世界から廃絶されることを希求し、自らはこのような兵器を製造及び保有せず、また、使用しない」という規定もつくりました。

改憲のハードルを低く

もうひとつ、国際情勢に対応するために憲法を変えるという意識が強く反映されたのが、改憲規定の見直しです。いまの96条は①衆参両院の3分の2以上の多数で発議②国民投票過半数の賛成で承認――という2段階の手続きを定めています。

読売案は国会議員の賛成の度合いで区別しました。

A)衆参両院の3分の2以上の賛成があれば、そのまま改憲
B)衆参両院の賛成が過半数だが、3分の2に届かないときは国民投票を実施し、過半数の賛成があれば改憲

紙面では「今後の時代の変化に対応できるよう、改正のハードルをやや低くした」と解説してありました。

天皇は第2章

冒頭で触れたように、読売案には改憲派からも批判が殺到しました。かねての悲願である軍隊の保持が盛り込まれたのに何が不満だったのでしょうか。矛先のほとんどは天皇の扱いに向いていました。

読売案の特徴のひとつが、いまの憲法では第1章に規定されている天皇の地位を第2章に回したことです。第1章には何を置いたのでしょうか。

1条 主権は、国民に存する。
2条 国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じ、及び憲法改正のための国民投票によって、主権を行使する。

明治憲法といまの憲法の最大の違いは、統治権天皇から国民に移ったことです。憲法には、そのことをまず書くべきではないか、というのが読売案の趣旨です。

諸外国を見ると、米国の憲法はこう書いてあります。

1条 この憲法によって付与されるすべての立法権は、上院と下院で構成される合衆国連邦議会に属する。

統治機構の説明ではありますが、国のルール作りは議会がする、すなわち主権は国民が持っている、という表明でもあります。憲法の冒頭で主権がどこにあるのかを明確にするのはよくある書き方です。

問題は、改憲派に2通りの人がいることです。「いまの憲法には不都合なところがあるので、時代に即して手直ししよう」という純粋改憲派と、「GHQ連合国軍総司令部)に押しつけられたいまの憲法を廃棄し、日本らしい憲法をつくりたい」という自主憲法制定派です。

後者には「天皇が象徴というわかりにくい存在になっているのはおかしい」「明治憲法のように『天皇神聖にして侵すべからず』と規定すべきだ」という考えの人が少なくありません。天皇主権に戻すべきだ、という考えの人もいます。そうした立場からすると、天皇の規定が後回しになっているというだけでも不愉快だったのでしょう。

提言もメディアの役割か

読売案を巡り、メディアが独自の考え方を提言することの是非も論争になりました。上記で引用した「提言報道」という本は、新聞・テレビは起きていることを淡々と報道していればよい、との批判に反論する趣旨でつくられた本です。

このなかで、同社の調査研究本部総務を務めた中野邦観氏は報道のあり方について「客観報道が大前提」としつつ、「読者に考える材料を提供する」として提言報道も重要だと述べています。

この方針に沿って、読売新聞は1995年に総合安全保障政策大綱、1996年に内閣・行政機構改革大綱を発表し、憲法改正試案も2000年に第2次案、2004年に第3次案を出しました。

他のメディアにも影響を与えました。日本経済新聞2000年に「憲法提言」を、産経新聞2013年に「国民の憲法要綱」を発表しています。

政界では2000年に衆参両院に憲法調査会が設置され、2005年には自民党が「新憲法草案」を発表しました。賛否はさておき、読売案の登場は改憲機運を大きく後押ししました。次回以降、さまざまな改憲案を取り上げます。

読売・橋本五郎特別編集委員に聞く

読売案づくりにかかわった読売新聞社橋本五郎特別編集委員に聞きました。
橋本五郎

――どのようにしてつくったのですか。

学者の意見をそのまま載せるのではなく、自分たちの案をつくろうということで、各部のデスク少し手前くらいの人が集まり、御殿場で合宿したりして2年近く勉強しました。政治部からは私と白石興二郎(元会長)が参加しました。講師を招き、国際政治学者の高坂正堯さんには亡くなる2年ほど前でしたが、来てもらいました。いちばんお世話になったのは、参院法制局長を務めた浅野一郎さんです。

――主導したのは渡辺恒雄さんですか。

主筆はまず徹底的に勉強するんです。神田の三省堂に行って、山ほど本を買ってきて読破する。科学的に考えるんです。モスクワ五輪をボイコットすべきか、消費税を導入すべきか、いつもそうです。

社内には改憲を打ち出すと読売新聞の部数が減るのではないかという懸念がありました。主筆も経営者として当然、そのことも考えたでしょうが、断固としてやろうとしました。結果として部数は全く減らなかったと聞きました。

――最重点は9条改正ですね。

自衛隊憲法のなかにどう位置付けるかを考えようということです。ひとつは湾岸戦争のようなときに国際貢献できなくてよいのか。もう一つは憲法学者の多くが自衛隊違憲と言っている状態でよいのか、です。

「交戦権」はなくしました。その前に侵略戦争は認めないとうたっているのだから、残る戦争は自衛のための戦争です。そこで交戦権を認めないと書くと、自衛もできないことになってしまいます。

自衛隊のことは1994年の試案では「自衛のための組織」と書きました。「軍隊」と書くことを躊躇(ちゅうちょ)したんです。軍隊への国民のアレルギーもあるだろうし、自衛隊を認めてもらうには負のイメージは避けた方がよい、と思ったんです。新しい憲法をつくろうとしたのに、そこは越えられなかったという思いがあります。

――憲法裁判所の設置は?

最高裁判所違憲立法審査権はありますが、自衛隊が合憲か違憲かに踏み込まない。憲法裁判所を設けて自衛隊違憲ならば違憲とはっきりしてもらえば、憲法を改正するか、自衛隊を解体するか、どちらかしかなくなります。

――中国や韓国がどう反応するかも考慮しましたか。

いや、そんなことを言い出したら、どこの国も軍隊を持てないです。

――改憲の手続きの見直しも提言しています。

ドイツは連邦議会の3分の2の賛成が必要なんですが、国民投票はないんです。それを参考にすると、国会と国民投票の二重の壁はいらないのではないか、という考えです。国民投票を全くなくすのもどうかということで、3分の2と過半数で区別しました。

――人格権など新しい権利も打ち出しています。

国際貢献について時代の変化に即して我々は変わる必要があると訴えました。憲法改正は旧に復するのではなく、新しい時代に合わせるものだということをトータルで示すことが国民の理解につながると考えました。

ただ、人格権や環境権のためだけに憲法改正するのかというとそれはどうでしょうか。安倍晋三元首相にも「9条をやればいいんだ」とよく言いました。

――1994年試案のあともいろいろ提言しています。

私は非常事態条項も担当していたので、最初の試案にどうしても入れたかったんです。戦争もある、自然災害もある、テロもあるわけですから。だけど、それらを全部繰り込むとものすごく複雑になる。そこで非常事態は翌年の総合安全保障政策大綱に回しました。憲法でなく、法律でやろうと。

――反省点はありますか。

天皇を第2章にしたことです。天皇が国民の統合の象徴というのは、国民の総意で決まるのですから、国民主権が先と思ったんです。当時、社内に異論はありませんでした。

その後、坂本多加雄学習院大教授の「近代日本精神史論」(1996年、講談社)などを読むと、憲法には日本の国柄、ほかの国と何が違うのかをまず書かないとおかしい、という趣旨の指摘がありました。それが天皇なんです。ああ、自分はあさはかだったなと。そこを右翼から突かれたわけです。激しい批判を浴びました。

もう一つは、国会の機能をどうするのかの議論が生煮えでした。ねじれ国会になると、法案が全く通らなくなったりしました。だから、参院の権力を弱めなくてはならないのに、この試案では正反対。参院に巨大な権力を持たそうとしました。条約や同意人事で衆院より優越権を与え、裁判官を任命できるようにする。米国の上院に倣っているわけですけど、これは本当によくないですね。

――1院制も検討しましたか。

全くなかったわけではないですが、1院だけで決まるのはよくないと。特に主筆ポピュリズムに非常に抵抗がありました。

――当時の反響はどうでしたか。

批判が殺到しましたね。新聞が世の中を誘導するようなことはすべきではない、という意見が多かったです。だけど私たちは新聞の役割は3つあると考えていました。事実の報道、その解説、そして提言です。いろいろな問題があったときに、世の中の「なぜ」に答える、「だったら、どうしたらよいの」にまで踏み込まないと。朝日新聞には批判されましたけど、その朝日も翌年の憲法記念日に社説特集の形で、自衛隊と別組織の平和支援隊の創設などを提言していました。

――発表から30年近くたちました。

あの頃は閣僚が憲法改正について発言すると、99条の憲法順守義務に反したと言われ、辞任に追い込まれました。いまはかなり自由に発言できるようになりました。隔世の感があります。憲法のような基本法こそ議論すべきでしょう。

編集委員 大石格
1961年、東京都生まれ。政治部記者、那覇支局長、ワシントン支局長、上級論説委員などを歴任。現在の担当はコラム「風見鶏」(2004年5月~現在)など。著書に「アメリカ大統領選 勝負の分かれ目」(単著)、「コロナ戦記」(共著)。慶応義塾大学特別招聘教授。BSテレビ東京BS-TBSの報道番組などに出演多数。ツイッター@OishiItaru

 

渡邊恒雄

 

1926年大正15年〉5月30日 -