俳優になるまで[編集]
1931年2月16日(月曜日)、筑豊炭田にある福岡県中間市[2] の裕福な一家に生まれる。4人きょうだいの次男で、上2人は息子、下2人が娘であった[2]。父は旧日本海軍の軍人で、戦艦「比叡」乗り組みなどを経て[2] 炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[4]。母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。太平洋戦争の終戦を迎えた中学生の時、アメリカ合衆国の文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った[4]。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった[4]。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた[4]。旧制東筑中学、福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。
1955年に大学時代の知人のつてで、当時、美空ひばりが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ[5]、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。マキノ雅弘は「高倉は山本麟一と同じ、高倉の明大の先輩で東映のプロデューサーだった光川仁朗の口利きで東映入りした」と話している[6]。同期には今井健二、丘さとみ、岡田敏子、五味龍太郎らがいた。高倉は東映に入社してしばらくの間[7][8]、東日貿易の社長・久保正雄の家に居候した[7][8]。高倉にとって久保は親代わりともいうべき人で[7][8]、長嶋茂雄らとの付き合いも久保を通じてのもの[7][8][9][10]。江利チエミの後見人でもあり[11]、江利は久保を「パパ」と呼んだ[11]。長嶋の長男である一茂の名付け親とされる[12]。久保はインドネシアの戦後補償を巡り[13][14]、伊藤忠商事の瀬島龍三とタッグを組み[8]、デヴィ・スカルノを使って[8][14][15]、池田勇人首相とスカルノインドネシア大統領を繋いだ政商[8][10][15] であった。