徒然なる儘に ・・・ ④

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「なよなよした声で憲法9条教えられる?」偏見と闘った女性憲法学者 聞き手 編集委員・高橋純子 同・豊秀一2024年5月3日 14時00分

 「女性のなよなよした声で憲法9条を教えられますか?」。そんな偏見としたたかに闘い、女性憲法学者の先駆けとして活躍した辻村みよ子さん。家族やジェンダー平等の問題にも長く取り組み、いまは医学部入試における女性差別対策弁護団に名を連ねる。辻村さん、そのエネルギーはどこから湧いてくるのですか?

ぶつかった「どうして女性が?」の壁

 ――一橋大の法学部に入学されたのは1968年。160人中女性は2人だけだったとか。

 「『女性がどうして法学部に?』とよく聞かれました」

 ――「どうして」だったのですか?

 「生後6カ月で親類の養女となり、高校卒業までずっと広島市で育ちました。街のあちこちに原爆の爪あとが残り、家にはガラスの破片が突き刺さった桐(きり)たんすがあって、家族との日常会話にも8月6日のことが出てくる。大の広島カープファンだった父と政治談議に花を咲かせるうち、平和と憲法のために尽くしたい、研究者か弁護士、でなければジャーナリストになると心に決めていました」

 「養女だと告げられたのは18歳の時。実父は東京都立大の物理学教授でしたから、東京の家で育っていたらきっと理系の道を歩んでいたでしょう。ある種の運命を感じます」

 ――しかし女性憲法学者は当時ほとんどいない。なかなか過酷な「運命」だったのでは?

 「何度も言われました。『女性は憲法に向かない』と」

 ――はて。それはなぜ?

 「女には憲法=天下国家を論じられないという偏見ですよ。『女性のなよなよした声で9条を教えられますか?』とも言われました。私は大学のボート部に女子部を創設し、全日本選手権にも出ていましたから、なよなよ? 冗談じゃないって」

「だけど実際、就職口が見つからないのです。ある地方の国立大では、『憲法は女性じゃない方がいい』との反対意見が出て人事がつぶれた。後で、反対したのは憲法の専門家だったらしいと聞こえてきました。また、ある女子大の学長に対して、仲介役の教授が私のことを『優秀で、女子ボート部をつくってリーダーシップもあり、酒も飲みますし』と紹介したら、その女性学長は『女でお酒を飲む人は嫌いです』。それで終わり」

 「大学院生同士で学生結婚して長女を出産しましたが、非常勤講師だと保育園に預けられない。論文を発表する場もなく、ゼミの同期で最後、32歳でやっと成城大のフランス法の専任講師となるまでは精神的に苦しかった。あの時の焦りや怒り、被差別感は今も忘れられません」

仏留学で出会ったグージュの「女性の権利宣言」

 ――でも、諦めなかった。

 「『どの学会の受付にもいる』と評判になるくらい学会の事務局を多く引き受け、『やめないぞ』という意思を示しました。終了後の飲み会にも参加し、『奥さん/お母さんなのだから早くお帰りなさい』と促されても最後まで残り、帰宅したら娘が熱を出していたことも」

 「フランスに73年に短期留学した際に出会った、劇作家オランプ・ドゥ・グージュの『女性の権利宣言』も支えになりました。『人と市民の自由・平等』をうたったフランス人権宣言を、グージュは『男性の権利宣言に過ぎない』と批判し、1791年に『女性の権利宣言』を著します。帰国後、この全訳・解説が『法律時報』に載った。院生の論文が採用されることは珍しく、自信になりました」

 「憲法研究者としては主権や選挙権といった『王道』を進んで地歩を固めつつ、グージュの伝記を翻訳出版する構想を1995年に実現させた。そして彼女に手を引かれるように、憲法学が無視してきた、家族やジェンダーの問題に取り組みました」

 ――無視、ですか。

 「憲法=天下国家だから、私的な領域に憲法学が立ち入るべきではない、家族や性といった私的な問題は民法学に任せておけばいいというのが当時の学界の常識でした。しかし『個人的なことはすべて政治的なこと』です。夫婦別姓にしろ、同性婚にしろ、私的領域にも憲法の原理が反映され、この社会が誰にとっても生きやすくなるよう、憲法学者として力を尽くしたいと考えるようになりました」

 ――私的領域の軽視は、憲法研究者に女性が少ないことと関係があるでしょうか。

 「あると思います。2000年代前半に調べたのですが、学問分野にも性別役割分業があり、家族法社会保障法では女性研究者が30%程度と高い。一方、刑法13%、憲法9%、安全保障は3%にも満たなかった」

 「ただ私は、自分が女性だからジェンダーや家族を研究しようとしたのではありません。広島出身だから9条擁護なのだろうとか、『原体験主義』で自分の仕事を矮小(わいしょう)化されたくないという気持ちは強くあります」

 ――「原体験主義」はそんなにダメなことでしょうか。差別や抑圧という女性の原体験は「取るに足りぬ」と男社会の中で握りつぶされ、女性の口はふさがれてきたのでは?

 「わかります。だけど私は、差別や抑圧への『怒り』や『怨念』をエネルギーにするような研究者は私の世代で終わりにしてほしいと願っているのです」

 「それに、私より下の世代は『原体験』を持ちにくい。私たちは大学紛争、もっと上だと戦争体験。国家や権力を身体感覚でつかんでいる。それがない若い世代には、『原体験主義』は安易に映ると思います」

転機となった国立大学憲法学教授就任

 ――1999年に国立大法学部では初の女性憲法学教授として、東北大に移られました。

 「大きな転機でした。学内の男女共同参画委員会副委員長を12年続け、学内保育園や病児保育所もつくって若い同僚に感謝されました。理論と実践、時代の流れがうまくかみ合い、法科大学院で『ジェンダーと法』を開講。ジェンダー法学会の立ち上げや内閣府男女共同参画会議の仕事にも力を注ぎました」

 「一方、男女共同参画を旗印に国から資金を得て研究することに反感を持つ人も多く、ジェンダー問題の『現実』にも直面します。男性中心の発想や旧弊との闘いに疲弊し何度も体調を崩しましたが、一定の成果があったと考えて、定年を機に2013年に明治大へ移りました」

 ――NHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」の主人公のモデル、日本初の女性弁護士・三淵嘉子さんは明治大出身ですね。

 「『虎に翼』は楽しみに見ています。不当に差別されていた100年前の女性の『はて?』に、視聴者が『わかるわかる』と共感を寄せている。新憲法のもと様々な変革が行われたのに、差別や偏見は引き継がれてしまった。高度経済成長を達成するため、『男は仕事、女は家庭』の性別役割分業を、国が推進したことの弊害はあまりに大きいと言わざるを得ません」

 ――「虎に翼」の初回冒頭、憲法14条が朗読されました。

日本国憲法14条

すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 「たしかに14条で差別禁止が明記されたことは重要です。ただ、AさんとBさんは法の下で平等ですと言っても、憲法学的には『Equality is empty(平等は空っぽ)』。権利の内容こそが重要になるので、私自身は個人の尊重と権利の保障を一貫して追い求めてきました」

 「13条(個人の尊重・幸福追求権)・14条と24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)は、この社会を変える確かな武器になる。夫婦別姓訴訟や同性婚訴訟も、これらの条文が支えています」

権利のためにこれからも闘う

 ――最近は、被選挙権年齢の引き下げ訴訟に意見書を提出したり、医学部入試における女性差別対策弁護団に入ったり、直接的な活動が目立ちますね。

 「『政治とカネ』が問題となるなか、世界の動向にならって被選挙権年齢を下げ、政治を若返らせて根底的に刷新することが不可欠です。また、入試での不当な性差別を最高裁ではっきり糾弾してもらわなければなりません」

 「東日本大震災の時、『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』を保障する25条を使って、被災者を救うために何かできないかと考えました。こんな時に役に立たないのなら、憲法学はいったい何のためにあるのかと。しかし学界の大勢は、憲法は万能じゃない、と腕組みしてみせただけです。だったら、弁護団に入ったり、いい意見書を書いたり、実践に力を注ぐ方が早く人の役に立てるのではないか、と考えるようになりました。今後はもっと、弱い立場にある人たちのために憲法をどう使うかを議論していくべきです」

 「『憲法にもっと光を。主権者にもっと怒りを。女性主権者にもっと力を!』。90年の憲法記念日に行った市民向けの講演をこう結びました。それから30年余、ずっとこの言葉を胸に闘ってきたけれど、まだ終わっていない。決して負けたくないですね。だから闘い続けます。思いを同じくする多くの皆さんと共に。権利のために」(聞き手 編集委員高橋純子、同・豊秀一

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 つじむら・みよこ 1949年生まれ。東北大名誉教授。フランス革命期の研究をはじめ比較憲法にも詳しい。弁護士、ジェンダー法政策研究所共同代表。「著作集」を刊行中