戦争の危機が迫ったらどうするか。1951年、米国は占領を終えるにあたり、こんな約束をするよう日本に求めてきた。軍事的な能力をもつ日本の組織は「合衆国が指名する最高司令官の統一指揮権の下におかれる」
▼日本はうろたえた。世に広まれば民心が動揺する。受け入れるが、明文化はしないでほしい。そして翌年、吉田茂首相はクラーク極東米軍司令官に、口頭で同意を伝えた――。日米の公文書に刻まれた、いわゆる「指揮権密約」の一幕だ
https://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/202204/03-2.pdf
▼外交とは祖国のために偽りを言う愛国的な技術だ、とビアス著『悪魔の辞典』にある。言う相手は外国だろう。しかしわが国は時々、偽りやごまかしの煙で、国民の目を覆うことがある
▼03年からの自衛隊イラク派遣。政府は、憲法の制約で、多国籍軍司令官の指揮下には入らないと説明した。だが防衛省は密(ひそ)かに、司令官の意見に「合致するよう配意」して行動せよと命じていた。忖度(そんたく)しろということだろう
▼指揮権はしっかり己の手のうちにあるのか。戦後の歩みの中で、たびたび俎上(そじょう)にのぼってきた問いである。岸田首相が米国で指揮統制の連携強化を約束してきたことに、野党などが「自衛隊が事実上、米軍の指揮下に置かれる」と懸念している
▼杞憂(きゆう)であることを願う。ただ、どうだろう。歴史をふまえると、政府はいざという時に「指揮下ではないが監督下に入る」とか「指揮と指図は違う」とか言い出して、煙(けむ)にまくのでは。そんな思いがどうにもぬぐいきれない。
馬というのは、良い学校、良い企業という、ニンジンを眼前に晒さないと走らないという、スパルタ式、資本主義社会を描かざるを得ない
のか、
それとも
良い学校、良い企業があっても、賃金体系がそれに準じることはないんだよ。という共産主義社會が望ましいのか。
人間の良心を信じるのか。
どうなんだろうね。
二十世紀の共産主義社会とは・・・
まぁ、辞めておこう